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フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯) : ミニ英和和英辞書
フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)[ふりーどりひ5せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [せん]
 【名詞】 1. (1) selection 2. choice 3. election 4. (2) compilation 5. editing 
: [みかど]
 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence 
: [こう]
  1. (n,n-suf) marquis 2. lord 3. daimyo 

フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯) : ウィキペディア日本語版
フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)[ふりーどりひ5せい]

フリードリヒ5世:''Friedrich V.'', 1596年8月16日 - 1632年11月29日)は 、プファルツ選帝侯(在位:1610年 - 1623年)、ボヘミアフリードリヒ1世チェコ語:''Friedrich Falcký'', 在位:1619年 - 1620年)。
1618年プラハ窓外投擲事件に始まる三十年戦争では、ボヘミア等族議員によってボヘミア王に選ばれたが、1620年の白山の戦いハプスブルク家が勝利を収めると王位を失った。そのことから冬王と呼ばれる。
== 生涯 ==
1596年、現在のドイツオーバープファルツ、アンベルク近くのダイスシュヴァイクにあったヤークトシュロス(Jagdschloss)で生まれた。父はプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)フリードリヒ4世、母はオランダ総督オラニエ公ウィレム1世シャルロット・ド・ブルボン=ヴァンドームの娘ルイーゼ・ユリアナである。1610年、父の死去によりプファルツ選帝侯を継承した。
1619年にボヘミアのプロテスタントの貴族たちは、カトリック神聖ローマ皇帝、ハプスブルク家のフェルディナント2世を王位から排除すべく、フリードリヒ5世にボヘミア王即位を申し出た。フリードリヒ5世がプロテスタント同盟の有力なメンバーだったためである。またこの同盟は、フリードリヒ5世の父フリードリヒ4世が帝国におけるプロテスタントの擁護のために結成したものであった。
フリードリヒ5世は即位を受諾したが、同盟者たるべきプロテスタント同盟はフリードリヒ5世への軍事的支援に失敗、反対にフェルディナント2世はフリードリヒの族兄であるバイエルンマクシミリアン1世を中心としたカトリック連盟を始めとする諸侯の支持を取り付け、スペイン軍がフリードリヒ5世の本拠であるプファルツに侵攻し占拠、ボヘミアの皇帝派貴族に反乱を起こさせ、準備を整えてからボヘミアへ出兵した。翌1620年11月8日の白山の戦いでボヘミア貴族連合軍はカトリック軍に敗北し、フリードリヒ5世のボヘミア王としての治世は終わった。
皇帝側は、フリードリヒ5世は冬だけの王で終わると揶揄して、1619年の彼の即位直後から帝国のパフレットに"冬王"を用いた。対するプロテスタント側は、フリードリヒは混乱からボヘミアを救った"冬のライオン"であると主張して対抗したが、プロテスタント側が敗北したため、"冬王"が定着した。
戦後、スペインは1621年にプファルツから撤退してオランダへ向かったが、フリードリヒはこの隙にプファルツ奪還を図り、傭兵隊長エルンスト・フォン・マンスフェルトクリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルバーデン=ドゥルラハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒらが挙兵したが、いずれもカトリック連盟司令官のティリー伯に打ち破られ、ティリーは1622年にプファルツを占拠、フリードリヒはオランダへ逃れた。
1623年、フリードリヒ5世の封地と選帝侯位を剥奪する勅令が公式に出され、それらは同族のマクシミリアン1世に与えられた。1630年に三十年戦争に介入したスウェーデングスタフ2世アドルフは、フリードリヒに戦線に復帰するよう要求したが、選帝侯であるフリードリヒは他国の王の指図を好まず、復帰を拒否した。
フリードリヒは余生のほとんどを妻や家族と共に亡命先のハーグで暮らし、1632年にマインツペストが要因で死去した〔菊池 1995、p. 129-130。〕。36歳だった。
一説ではフリードリヒはグスタフ2世アドルフの死の報告を聞いてから間もなく昏倒したという。1648年ヴェストファーレン条約が締結されると次男のカール1世ルートヴィヒは新設の選帝侯としてドイツに戻り、マクシミリアン1世も選帝侯として認められた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)」の詳細全文を読む




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